秀 句 鑑 賞 |
冠句の文芸ジャンルを「俳諧のエッセンシャリズム」とした、芥川龍之介は彼自らの精選句集『澄江堂句集』を遺したが、近代人でも都会的生活観の鋭い目の働きで詠んだ作品に、今日の冠句視点で鑑賞しても、極めて句の特色が冠句性に近いものがある。
青蛙おのれもペンキ塗り立てか は冠句的なウイット。
蛇女みごもる雨や合歓の花 これは起承転結法だ。
明眸の見るもの沖の遠花火 捉え処が映発の手法。
木がらしや目刺にのこる海のいろ 松江重頼門の池西言水の作を、心に踏まえながら感覚が鮮明で照応の美の描出がある。
元日や手を洗ひをる夕ごころ 手を洗うに夕ごころと叙した心境は、生活断片の陰翳を語り出した二句対詠の働きだ。
水涕や鼻の先だけ暮れ残る 彼の辞世的な作といわれ、短冊に染筆して主治医に言伝て、この後服毒死している。昭和二年七月二十四日で、奇しくも『文芸塔』創刊時そして、先師と祥月を同じくしている。右の句は大正九年頃の作と言われていて、その頃に先師は講談社に居て、冠句と出合いその雑誌記者としての業務の肩書で、芥川と先師との面識関わりが生じ、先師の冠句ジャンルの説明に、すぐその本質を察知して冒頭の言葉で、「ズバリといい切った」エピソードに至ったことは意味深い。
芥川が自裁せず『文芸塔』創刊以後を識っていたなら、菊池寛と共に先師の冠句革新の啓蒙に、心強い理解者となったことであろう。先師の一歳下で『新思潮』に小説「鼻」を発表していた。短冊に「自嘲」と前書した右記の句は、従って自己客観視の作。 「海蒼む」は叙景詩であって感覚感性による興趣が勝るところ、「暮れ忙し」短日から年の暮の生活実感から生じる境地の深浅。詠みぶりがさまざまあるようでいて、句境のまとめようや表現が広がらず、平たく云えば手強い冠題と云えたが粒揃いであった。
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海蒼む |
まなざし夢の深みまで |
浅 田 邦 生 |
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語韻のu音とa音のつながりと、述詞の「まなざし」から「まで」に、孤独でいて自由気侭な現代人の性格の一端が、憧れと少し返らぬ夢への切ない悔いを込め、作者も目覚めてなお一層「夢の深み」を、見続けたい表白は柔軟で豊かさがある。語彙は豊かでないと句柄が痩せ、謂る花や色気が無くなる注意のしどころ。
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暮れ忙し |
どこまで枯野唖の笛 |
川 口 未 知 |
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木枯らし舞う野外を脳裡に思い描いて、ふと「唖の笛」の辰一句集を追懐したのだろう。若い昔から目にし耳にして来た、彼の常に自己投影に情熱した句作と、その性格の傷つき易くして強い背光性の人間性を、今改めて耳研いで聴き取ろうとしている句。
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暮れ忙し |
樹々を鳴らして刻の過ぐ |
小 谷 豊 子 |
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極めて素直に生活感を見凝めている写実吟で、作者の日常断片の想いの上を吹き渡る風を、自らの体内を駆け巡り「刻の過ぐ」淋しさとも感じ受けている、神経が樹々の景に描き出ている。
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海蒼む |
魂の絃何故響く |
大 橋 広 洋 |
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一面渺々と広がる海に「魂の絃」が「響く」印象を、作者の奥深いところからと受け止めているのは、前句に通う処があるが発想は以前作者にあった「魂」の句の残像もあろう。主情表現だ。
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海蒼む |
ふと入墨の美を想う |
藤 原 萬 郷 |
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モチーフが宛も嵐の後の海面に、水脈のような現象多彩の装飾画を想像し、それを「入墨の美」とした比喩は、何か海の神秘性に概念的な物語を感じたひねりがある。想い描きが作者の特色。
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暮れ忙し |
座っても目はカレンダー |
中 台 敏 隆 |
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これはその日々の暦が過ぎ行く早さを、直接目前にしていての実感を「座っても目は」と、無雑作に語って苦笑味を滲ませた。
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海蒼む |
漁村ひとつが日溜りに |
藤 本 ひろみ |
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出漁の船が出終えた後の漁港の集落が、穏やかに仄暖かく「日溜りに」寄り合っている光景。私は波浮の港を思い重ねるが「漁村ひとつが」と言いさした景の把握に、作者の的確でリアルな風景への感動があって、冬うららかな日の漁村場景が目に出来る。
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暮れ忙し |
無口に過ぎる人の波 |
加 納 金 子 |
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街の大通りを足早に往き交う「人の波」の情景だが、人間(かん)のある憂愁を「無口に過ぎる」と描写して、夕刻の影に包まれている市民の生活情懐を言取った、テニオハで言外に微妙な味が出た。
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海蒼む |
「かぐや」が映すああ地球 |
加 藤 直 子 |
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先頃月探査衛星が撮影した、月面裏側地平に観る地球の出没する、テレビ映像の美観を「映すああ地球」と感歎した句。海水と雲に包まれた鮮美な命を持つ星。滴るばかりの三歎につきよう。
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