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バックナンバー 2007年9月
緑深い吉野の奥に天平の面影を保ち、八角円堂の美しい姿を今に伝える古刹を私は思った。その堂字は法隆寺の夢殿と通じる優美さがある。作者の語る寺院とは違うだろうが、句調の正しさが冠句の立句を「成ずる」という、作句の「姿高く位よろしき」に少しのぶれも無く、景容爽明で心の姿も整った印象で感じ深い。余計だが"老僧"は老師と尊ばれる高傑の僧と見るべきだろう。
大戦後六十年が過ぎ「戦史は」歴史の波に洗われて、昔語りの観光地として賑わっている光景が浮かぶ。とりわけ「南の島」は多くがその傾向にあろう。唯一本土上陸戦があった沖縄が、今基地としてまだ残る。波頭が絶えず洗う景観が眩しくも切ない。
海浜風景でも漁港を抱えた、リアス式海岸の一区劃の観光街と漁臭の漂う港町との対照を捉えている。旨い魚介類を食べさせてくれる「ホテル」側の、少し離れた町の路地に視点をおいて、味覚を味わう楽しさと別の、夕べの一時をぶらりゆく愉さがある。
宝飾の美しさと緑深い季節の空に、ふと偲ぶ人の「形見のヒスイ」を透かせ見ての、切ないがどこか気持昂ぶらせて、手にする遺された形見に、何か遠い夢のごときものを嘆賞している姿だ。作者と偲ぶ人とのかえり来ない悲しみでも柔らかな視線を知る。
前句の空との想いの違いが「無窮の」という、心持も遥かに遠く重い感懐で「旅誘う」憧れを詠んでいる。作者は町の一隅に居て変らぬ生活から、つと思い掻立てられ瑞々しい緑を抜けて来る風に、新しい旅心が働いたのだろう。驚きのような弾みがある。
こんな自然な心使いをする児童に会ってみたい思いになる。至極当り前の礼儀を「忘れぬ豆剣士」に見立てした処が、作者の生来の身に備わった潔くて鋭い、審美精神と言葉に対する印象描写力の顕れで、その素質がくっきりと打ち出たと云える。従って一瞬の「会釈」を交わす姿が、平俗を超えて緑の中でよく映えた。
映像を見せられている感になる。それでいて前出にあった異国の句より、より具体で併せて作者の国語の語感に対する関心の程が伝わってくる。場景は「船が着く」だけだがそこに、歌曲オ・ソレ・ミオの明るく青く抜ける空、恋心のような輝きを思う。余計な想像を書けばデポラカーが船橋に出てくるのを私はみる。
ハレの日に用いる衣服や什器に付けた家紋の感慨。家紋は多種で使われ方も多様、私宅では祝膳や紋額に飾る。が平常余り目にしない現代、それに「重き誇り持つ」この句は、その伝統美の整いを大事にする育ちを窺わせもして、意識の上の品格を感じる。