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バックナンバー 2007年8月
先師久佐太郎は冠句最古本「夏木立」の原典で、冠句の始祖を歴史的資料に探り、大系明らかにされたが昭和四(一九二九)年、東京の素人社から『現代冠句大観』の出版もされ、私はそれを図書館で見た覚えが甦る。それは別にして先師は晩年も「夏木立」を座右に置かれた。この作の「一冊と出会い」の重く深い感銘に考えさせられ“一隅を照らす是れ国宝”の語を思う。余談に過ぎたが、作句も人の心と記憶に永く残ることを願望としたい句。
シチェエーション(状況)が浪漫で、ナルシズムな陶酔感の境地だ。木星と金星が同方角の珍しいときが思われ、その輝き美しい夕に女の本性そのままに、生活の繁雑や俗臭を脱ぎ去って一沫清純な気に触れたあやな想いがある。理屈でない姿を語っていて、淡いエロスが漂い句の感性に新しみはないが愛情が匂う。
追悼の情景だが過去の悲惨でも、人間的あたたかさの献心への鎮魂を感じさせる。それは「灯の揺れ」が「風が佳し」に移り映える形が、職務に殉じて人の身を救助する尊さの象徴にも見るからだ。又「一分」の刻のきざみに、身を引き締める念いがある。
回春壮夫の気をなお失わないで、昔の力漕を呼び戻している甦りの印象だ。それは「櫂を握れば」感覚が集中して心身に一点、ちからが漲ってくる悦びである。赤裸な思いに歳は無いのだ。句調の畳みかけの所謂テニオハが快調で、仲間との交歓景を見る。
境涯性を自問自答しての「晩年重からず」と感じたのだろう。あくまで澄んだ大空の広さと、心地よい風の行方から湧き出た感歎でそこに躬を置き吹かれている感じが、逆説的に力強く向かい立っている、作者の眼の据えどころを発見する庶民旦暮の句。
無心でいて少し孤独な時間の流れを、意識した心象抒情と云えよう。風に「魂だけを」何処へともなく、自在なままに遊ばせたい、ある意味贅沢なこころには、その底に「千の風」の歌の曲のもつ、淋しさの中の透明なあこがれが作者にあるかも知れない。
柳の青さが微風に揺れる日の、結婚式場から眺め見える河岸の光景か。新しい人生へ歩み出す「ふたりを祝す」に、まこと美しい輝きようを活写されていて、その場に満つ翠風感を望むよう。
昭和も遠くなったが団塊の世代が、定年人生の転換に入る今日に、時代相を「必然」に負う故の人々の性格が切り取れている。
健全で微笑ましい学童の成長を、まこと簡潔に「ランドセル」の用具に示している。作者の眼の働きの明るく素直な情景描写。