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優秀冠句


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2007年5月






秀  句  鑑  賞
 冠句研究誌『文芸塔』創刊八十周年になる「正風冠句」は、六十三年前の昭和十八年に、冠句始祖冠翁墓碑域に『冠翁提唱正風冠句二百五十年記念』と刻した標石が建立され、五月十六日、京都市文化課、朝日新聞京都支局の後援を得、上徳寺にて朝来より福井・名古屋と近府県から来会者多数が、久佐太郎師を中心に墓前祭を営み、大会句会では穎原退蔵博士の記念講演が行われ、大成果を納めている。その年は各地支部所在地でも記念冠句大会行事が挙行され、大阪では市文化課、大阪新聞社、読売大阪支局の後援で、近松門左衛門に由縁深い網島の大長寺で開かれている。
  名古屋大会は七月十八日、市文化連盟、中部日本新聞社の後援で、蝉しぐれの長円寺にて開催。他に札幌記念大会が八月十五日北海道新聞社と市芸能連盟の後援で、グラントホテルにてあり、九州八代支部は市文化協会の後援で、九月二十四日代陽国民学校講堂で盛況裡に。十月三日は姫路支部が神戸新聞支局の後援で開かれ、十月十七日、神戸大会が湊川神社七生館で催され、ここでは本社膝元だけに特別冠句展を行い、久佐太郎師愛蔵文献の出陳もあり、その他各地よりの出品数が一千点に達し展示された。
  その掉尾は東京大会を十一月十四日、駿河台日本生活協会の大講堂で開催し成果を収めてい、奇しくも同日夜神田共立講堂では芭蕉の二百五十年記念の集いが、同じ日に催され由縁も深い。なお、京都支部の満十五周年大会が、昭和十七年度冠翁忌に墓前奉告祭が行われており、併せてその活動の多彩が記録に残る。
  前出の先師愛蔵文献の出陳の件は、冠句始祖の堀内雲皷の事蹟が判った古文献で最古本『夏木立』が、出ていたことが識れて先師が正風冠句の「目指す蕉風的な連句の十七音字化(この新形式の提唱はかの長形式による連句を専らとしていた当時の俳壇にとっては、正しく大きな革新運動であったに違いない。)…向って勇敢に私達は作句を進めて行った」と、書かれる典拠がわかる話だ。
  それが「雲皷の革新精神への飽くなき追究であり、復興であった。」として先師自らの作品を例に掲げ
ソーダ水 ガーベラの紅さと揺れる雲
ソーダ水 薄暮がながい熱帯魚
向日葵(連作)
太陽が 空に浴みし 夏となる
太陽が 海に濯ぎて 夏となる
太陽が 魂を浄めて 夏となる
新生へ ものみな灼きつ 目くるめく

  それからまた、(大砂辰一作品に触れこれからの期待をされた)

遠雷す 直線・円・円・花の角度
ソーダ水 植物へ海が歩いて来る

「ここにはアブストラクトとかシュールとか、いわゆる近代芸術精神の課題にも触れて来るのだが」と記し「それは極めて精密に計算されたリアリズム(デッサンの確かさ)に発想した作品であるということである。」と評され「語彙の豊かさのもう一つ奥を索ぐれば、ロダン的なマチス的なかっちりしたデッサンを把握し得ること」で「これは我等作句の上でも学ぶべきことがらであろう。」と結んで、何れ若い人達でなされる冠句への待望をいわれた。

径を行く 一切忘じ春夕焼 樋 口 八重子 ▲戻る
   静かな中で作者が何かを求めながら、気分柔らげ歩調もゆったりと、こみちを戻り行く眼に春の残照が不安というには少し重いが、身辺をとり巻く雑事や気懸かりの一切のことを、彼方の空に消し去るばかりの、朱黄色に淡く映える明媚さに感動したのだ。短文芸で"一"はよく用いられ、また一沫、一瞬、一つなど一句に纏め易く作例類型が多いが、何事何物も棄て放つ想いのこの作は、唯一確かな心境の手応えをいい、又春夕焼だから光耀した。
情けあり 谺に帰りたがる鴉 住 澤 和 美 ▲戻る
   ボキャブラリイ(語彙)に作者独特の暗喩性があって、やや難しく感じるがよく心象形容を探り、口に乗せてよみとると至極淡々とした、情景心理を働かせているのが見出せる。町中では嫌われ者の"鴉"にも塒はある。私も「鴉に帰る塒」など詠んだ。作者は谺がかえる親しみに喩えて、鳴き返す声音に一沫の「情け」を覚え、取残されることなく去る鳥の生活を我心と映じたのだ。
情けあり 連理の枝で終りたし 大 橋 広 洋 ▲戻る
   二本の樹の枝が一つに絡み合っている姿形。その謂われに傚(なら)って、生涯伴侶として離れないことを念った憧憬句で、前句の群れ帰る一齣に比べて、感情の深さが改まった感がうるわしい。人生の望ましい境涯の理想を追った、作者は己れ自身の再発見のような、感情になって更めて夫婦の結びつきを嘆じたといえよう。
径を行く 絃かき鳴らす楠大樹 小宮山 初 子 ▲戻る
   樟脳が採れる常緑の樹木、いい匂いのする樹姿も極めて高く幹回りも太くよく目立つ。初夏に白い小花を咲かせてその実は、秋に穫れるので秋季に詠まれることが多い。この句は枝葉が風に光沢する景観だが、弦=絃を鳴らすと眺め感じた抒情味が心楽しい。
径を行く 不発の銃を胸に抱き 野 口 正 子 ▲戻る
   季としては狩猟期だろうから「銃」はふしぎでないが、作者がそれを「胸に抱き」てと感慨する句因は、大胆でかつ破格の不信がある。それも「不発の」抑え切れない頑迷への危うさを、指弾する隠喩があるがそこは穿鑿しても味気ない。唯哀愁感を買う。
情けあり 男の涙塩っぱき 三 村 昌 也 ▲戻る
   男は涙を見せないとしたのは昔のはなしのようだ。加齢で涙腺もゆるみ易いようで感情も淡泊になったのかも知れない。が、涙の味にはむかしもいまも、違いは無いだろうから、それを「塩っぱき」とペーソスで語ったところに、作者の物淋しさが出ている。
径を行く 哲学という旗掲げ 西 村 たみ子 ▲戻る
   京の疏水沿いに"哲学の径"がある。日本の哲学論発祥ともいえる。句の語法上抽象化にすぎる「哲学という」述べ方は、孤高の詩魂の深さを言ういわば破格の昂揚があり、それが「旗掲げ」にずばりと言い止め、高い心境を打出せたと認めていいだろう。
情けあり 少し眩しいネコヤナギ 助 川 助 六 ▲戻る
   何か童心の純な目線に却っての憶いに、無心になり切れないいまの晩年観が現れて「少し」の感嘆になったのだろう。只眼前にある植物の生命の輝きに、言えば震災後の息災を心秘めた句だ。
径を行く ふと聞こえ来し卒業歌 近 藤 恭 代 ▲戻る
   単純な情況をそのまま詠み流しているが、人の情に入ってくるのは、歌声の響きにそそられるのだ。さりげなさも句心で大事。

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