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2007年1月
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2007年1月
秀 句 鑑 賞
新年号の作品評になるのだが未だ黄葉には早く、 暦の立冬の日が編集日でしぐれを見た後、 かわり易い秋空のいわれどおりの気候である。 夜中は冷えるが日中は少し暑く体調を馴らしにくい晩秋と云える。 そうしたなか山茶花が咲き、 鵙の声にこころ動く。 ともあれみなさんの健吟を願いつつ、 選句を了えたが一つ前おきにのべておきたいことがある。 出句稿の冠題を省略記号にしないことである。 冠句は二句一章の定型詩である、 従って冠題が記号では、 ただの十二音字で題詠でなくなる。 心した清記をのぞむ。
朝の市
刀身痩せるまで研いで
秦 谷 淑 子
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屋台店での生鮮魚を捌き商う一場面に絞った見付け処が鋭い。 長年扱いなれた刃物の薄い艶とにおいが伝わり、 素早く切り刮く手だれの腕利きを描写している。 刀身はこの場合いわゆる細身幅の諸刃で、 焼刃の強靭な包丁だとおもう。 活気と繁雑さが入り混じる、 独特の朝市の雰囲気で 「痩せるまで研いで」 使っていることに、 心付いた神経のよく働いた視点の生活実景描写がいい。
流れ澄む
鴛鴦の愛こまやかに
松 浦 外 郎
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各地の湖や沼池で見かける水鳥でも、 冬羽の雄の頭かざりが華麗で、 また 「鴛鴦の契」 の語があるように雌雄離れず、 眠るにも翼と頸を交じえるので、 仲のいいことの喩えになっていることの描写であるので、 句評はさしていらない作者の浪漫性が濃厚に表れた句とだけ言える。 が実は毎年相手が替わり独占欲が強くあらそいもあり、 おしどり夫婦のことばも疑わしいと、 観察話にみる。
朝の市
雪の匂いす青野菜
赤 島 よし枝
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店頭に堆み並べられた野菜の目ざむるばかりの青さに、 冬の空がきびしいがみずみずしい朝日を溢れさせている。 そのいろどりの印象鮮明を 「雪の匂いす」 と、 ことばも美しく作者の主観感性のまま、 余り欲ばらず心情をも叙した処が、 作者の素質のよさである。 市の空気にふいと雪を匂いとった胸に故郷が泛かんだのだ。
流れ澄む
哲学者めき立つ白鷺
三 村 昌 也
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河川の中洲や堤の渕で餌を狙い待って、 身ゆるぎもせず立つ白鷺を 「哲学者めき」 と、 比喩形容したこの句は作者自身の志や忍耐も、 人間的弱さと生きるための欲心から、 離脱しきれないことを、 白鷺の端正な挙動に同化した寓意詩で、 その詠みの口吻には虚を衝かれた心境感と、 瞬き呼吸を呑み込む風貌が見えてくる。
朝の市
呼び声魚の眼が生きる
古 川 きよ子
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『……らっしゃい!』 の売り声が朝市の雑然さによく透り、 まさに活きのいい鮮らしさを喚起させる場景が、 座五の 「眼が生きる」 で素直に描き得た。 単純明快、 魚の鮮度はまさしく眼色に出る。 私の旧作 「暮れの街 鰤の冷めたき眼に触れる」 を想い出した。
流れ澄む
帰らぬ月日来る月日
片 山 晃 一
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歳晩の感慨で一月号に合わせて詠まれたのだが、 月日の流れには堰は無く 『逝く水は斯く』 の論語 『百代の過客』 の芭蕉の詞と日月は常に渝らない。 帰らぬ―来るの措辞で改まる気を捉えて、 流れ澄む新年へのイメージに寄せた、 平明な加齢の感偶が出た。
朝の市
冬木に軍手置かれあり
樋 口 八重子
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ある意味異色の抽象化された、 それでいて視覚の面で注目していい、 作者の心象の裡を印象画風に語ろうとしている。 冬木と軍手の事物に即した太い線描が、 消え難い確かさで迫真性がある。 商いの内容は表に出ていないが、 植木の春待つ映りを匂わせる。
流れ澄む
消息のない子を憶う
助 川 助 六
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昨今の世情はこの句のような親身な情からとおい事件が多発、 それだけに 「子を憶う」 心境に慈愛深い境涯性が出て、 作者の人物性を匂わす暖かな神経が伝わってくる。 ―便りの無いのはよい便り―の諺を超えた、"憶"う語に心からおもいやる男親の達意があり、 平易な叙述にして真面目な無辜の庶民感情に共鳴する、 人情表現が裏打ちされて余情も濃い。 眼頭熱くなる手腕が光る。
流れ澄む
凡愚は雑音苦にもせず
小 森 冴 子
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人生の哀歓を噛みしめて敢えて 「凡愚」 と、 寂しく見定めているが、 無為に現世の所業哀憐を見過ごしてはいない筈の含蓄が、 流れのなかに映り見える。 それは 「苦にせず」 の主情に 「守愚は聖のよしとする所」 の銘に通じる、 充ち足りた歎が仄かに伝わる。
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