TOP > バックナンバー > 2015年12月
冠句は感動の抒情詩で、物事を詠み込むものではない。そして句心を詠(うた)うことに門はなく、 つまり、冠句に作者の詩心が生じた尽に、その情(こころ)を抒べることで作品となり、それを読む人の胸の中に、記憶されれば冠句は全うする。 人の心の中に生き続ける、その抒情の余情こそ冠句の生命。
自然の季のめぐりと、小さな昆虫の働きへの慈しみ思う愛憐の情景。美麗な「紅薔薇」の蜜に寄る「蜂」を捉え、 その営みに生きる「針」先の鋭敏さを叙し、生き物より恵み享ける人間の命の糧への、ある切なさを詠じている。 開き「読む」昆虫記や名著の効用を、色彩鮮やかに対比詠。
対して、未来に続く人生の長い航路へ歩み出す。若い輝きに艶めく瞳を持ち「掌を重ね」合う、契りを語る祝婚情景。 二人が読み「誓う」言辞は「行く末」いつ迄も、共に尽くす愛への「祈り」があり、命分かつも渝らないとの、普遍的な人の情を叙した詠。 人の結びの旧びぬ歓び描く。
赤みがかった青が「紺」で貴色。鮮やかな藍が紺青と云われる。秋に青むらさきに咲く「竜胆」に、 心慕う「師を偲ぶ」懐旧詠嘆。秋草知名の一つで詠まれた詩句多いが、その「揺れて」いる花・茎の景に、憶い濃い心情伝えている。 因みに根は薬になり花の姿を紋章にもしてあり名草。