TOP > バックナンバー > 2015年10月
長い猛暑日続きが八月に入っても熄まず、秋の訪れ遅いままに日脚が少しずつ短くなるのを、 西に沈みゆく太陽の茜の赤さに心なし感じる。その赤色が今年印象を違えて望み見えるのは、吹く風に秋来る気配の涼やかさを覚え無いからだろう。 古歌の“目には……みえねども”に倣えば、五感で聴き判る移りゆく季のことば、暦の“処暑”が暮らしの上と合わなくなって来ていると考える。 旧暦盆の上弦月を目にしつ、どこか潤い仄赤い光りに清涼の秋を切願し“月天心貧しき町を通りけり”の名吟が、妙に胸に迫る。
流れ巡る月日と「水に」は、留まりない無常の姿の現れあり、古来から名言名文や詩歌になされている。 その印象に通う「逝く」方を想い、自然のはたらきに吾が「影洗われて」と、心澄まされて佇む感じ易い女の心情で、万目粛條とあることへの讃仰歎だ。 新感覚でないが詩質純一。
そして同じに、柔らかな情の捉えで湧き上がる「声」を、眼先の「岸辺より」自然のように、女の身に迫る「感嘆」と、 溢れ出で揺らぎ「咲く」光景に描いている。夜の天空に咲く花火の景であって、モチーフ殊更なことないが眼底に、忘れ難く残る一瞬一瞬の驚きへの憧憬を、 素直に詠。
一読意外な「猫」の名の「小鉄」に、滑稽さと切口鋭い掌編物を読む感がする。それはさておき「屋根を蹴る」動作はありふれるが、 字違いのよみ名の姿態と何とない、不思議な興趣が相合っている。その趣の見付け処が句の眼目。