“春”の字は、草が生える意と音で成り、その草の「はる」時期を表しているが、雪多い今年は樹の差し交わす先に“黄”の蕾ふくらむ気配に、
日の光り匂う「きいろ」が春のはじまりのように私は感じる。字典には日光・大地・天子の色ととうとばれると。日光が黄とあるから漢字の象徴として、
日の光り匂う「きいろ」と感じたことに納得。そして鴬を「黄鳥」としていることに、春をさきがける鳴禽の初音の、清亮さによく合っていると改めて学んだ。
尤もわが国のうぐいすは、薄緑の灰褐色で地味でいわゆる“鴬茶”で、黄鳥の字を当てる高麗鴬とは違うとある。日本は太陽は赤であり、
大地も赤土か黒土で中国の黄土と異なる。漢字文化であっても意味や用い方が違う所以だ。それはそれとして、春は草摘みの娯しみがある。
いろの季節へ目覚める日溜りで、嫁菜や野蒜を採り自然の食味をよろこびとした。そうした嘗ての情景は素朴にも憂いない、嬉々とした季節の味わい賞でる、思いも和む姿といえた。
昨今は然し、農薬やその他での汚染で近郊では摘み難くなり、とりわけ、原発事故の放射能により、採石場にも汚染が及ぶ事態に、
自然の動植物をも案じる光景で心憂う。が、春の野趣は他にかえがたい風土性豊かな匂いと色だ。マネの名画で「草上の食事」を描いていいが、洋の東西を問わず野遊びやピクニックは、春からの遊興で洵にいい。
君ならば |
何ささぐらん謝肉祭 |
久佐太郎 |
唄幼な |
いたどり酸ゆき遠青空 |
明 美 |
虎杖は路傍にも生えて、その茎の皮を剥いで生のまま食べたものだ。細竹に似て夏に白い小花をつけていたのもたのしい。
いまも所により見受けるが酸っぱさ同じだろう。憂いなく手折って見たいが、食べることにふと躊躇する。野趣を気儘にたのしめる環境事情に戻って欲しいものだ。
蕗煮つめ |
妻よ萎ゆるな春なれば |
桜 月 |
なづな粥 |
天と地のいろよみがえる |
明 美 |
嫁菜飯を私は好んで摘み草をして来ては青にがさ愛した。野蒜は球根までうまく採り、ぬたの味が香りとなじんだ。
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