先師久佐太郎が、阪神急行電鐵(後阪急電鉄)創業者の小林一三設立、『寶塚國民座』 文芸部に招かれ、演劇公演脚本解説誌で、久佐太郎の名で編輯に携わったのは、昭和四年五月頃と思われるが、その「宝塚国民座」は大正十五年創刊号は、B6判の小冊子で久保志方が編集し、
翌次号よりA5判約五〇頁の月刊で発行されている。昭和五年一月に座員の集合写真が載り、謹賀新年の枠付名欄に小林一三始め、座員名が並び久佐太郎、久保志方が氏名末尾に記され、
相馬御風の一首が詠まれている。また 『歌劇』つまり宝塚少女歌劇機関誌が、一月倍大号発行も併せて発表して、愛読者大会の招待を行っている。
宝塚歌劇は大正三年初公演、宝塚新温泉(後ファミリーランド)に設けた大劇場で公演、中劇場で国民座の新劇が坪内、堀、坪井の演出で発表、演劇ファンに好評と熱誠応援のお願いを、
先師は「編輯後記」で書き、「早いもので本誌編輯に従事して一年」になると述懐している。『国民座』 誌は、演劇脚本の解説もし、
井上正夫の「有楽座」野淵昶の「エランビタル劇場」小山内薫の「築地小劇場」で、上演「宝塚歌劇」も舞台化した、ロシヤ演劇ゴーゴリーの 『檢察官』 を、坪井正直脚色上演に就いてを載せ、
そのゴーゴリ「檢察官」餘談を、久佐太郎名で著し坪井の脚本を読んでの感慨を、「忘れてゐたむかしの戀人にでも會ふ一種のなつかしさを以って讀み返して見た」と、
記し「検察官」から「自分もこんな脚本を書きたいものだと、異常なショックをうけたのは二十年も前の話だ。そして事実それを模したものを、ある雑誌に発表した」と述べている。
先師は、英文科専攻だがロシア演劇への関心が深かったようで、「ゴーゴリ」の上演劇で、「彼の前にプーシキンがあった。グリボエードフ、フオン井"ジンあったが、
近代的強い脚光にはまだまだ力弱いもの彼等の内にある」が、「検察官」の「上演さるるに及んで露西亜は、はっきり自国の演劇を有ち得たことを自覚したのである」と語り、プーシキンから得たと伝わる旅行見聞の、
ペテルブルグでの痛快無比な喜劇を紹介している。そして「あんまり可笑しいので、これを印刷中の植字工や校正係りが笑い出して、仕事の能率が妨げられた」エピソードも添えられて、先師の心根が分かってくる。
ここで詳しく述べられないが、久佐太郎が書き遺した文から、上演劇の脚本に係わる意図と志向の面が、よく伝わり、また作家土師清二もその頃共に座員として、知遇のことも消息で判る。
そして先師の芸術傾向の広さが窺え、宝塚時代の著述資料も、勉強すべき大切さを更めて考える。
虫が鳴く宿直の窓一つ開き (昭五年頃)
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