音楽でもクラシックの交響曲、それもベートーベンの「第九」が、今春のこの時期にN響で演奏されて、
いま更に作曲者ベートーベンの巨きさが心の芯に蘇る。三月十一日の「東日本大震災」被災地へ、全面的支援と復活を祈るに相応しい、曲調と合唱の歌声の力を感じ、避難生活の人々にも明るい光りを届けたと想う。
この曲はわが国では、年末の恒例となって演奏され、よく親しまれクラシックに縁遠い人でも、この「第九」は耳にして馴染んでいると言っていいだろう。交響曲の内容を私が述べる迄もないのだが、ベートーベンは、
人類の苦難に対しメッセージとして、自らの難聴の困難を超克して後世に用意してくれたとも考える。ベートーベンの曲には、構成力の大きさと併せてメロディーが美しく、心優しい「ソナタ」や「協奏曲」も作られている。
癒やしの面では、"バッハ""モーツァルト"を誰しもが思うが、人の愛と人生真理を深く響き伝えたのは、私はベートーベンだったと思っている。
そうであればこそ彼の葬儀のとき、二万人以上の市民が自然に集まり、柩を見送った哀惜の群列の大いさに納得する。
ともあれ、ベートーベンの人物と精神性の偉大さは、多くの曲が音楽家として致命な耳を患い、発表演奏で聴衆が賞讃しておくる、鳴り止まぬ拍手の響きを指揮台で聴こえず、振り向かされて初めて判る程、
演奏だけに傾心した姿勢にもよく窺われる。それでいて原曲譜面は一見では読めず、写譜を悩まさせた処に彼の放縦ぶりが見え、映画にもなった芸術表現と人間味の落差を思う。
尤も私は譜面は読めないので、曲を清書する人の明晰さに感心。
処でこの「塔映集」作品も、原句を"選句浄書"しそして"印字"それを、校正・訂正と少なくとも三回は、作句者とは別の人手と手間を経て、初めて印刷物となった『文芸塔』に仕上がる。
つまり譬えれば、作者の句は阿古屋貝の一つで、貝を開きその嚢中から、真珠を取り出して洗い選別され、粒揃いの光沢良い、真珠の作として誌上に発表されると謂える。
然し、真珠の元々の原資が悪ければ、歪な形のままで決して真円美しい珠玉にはならない。冠句の上五句冠題は"真珠の核"である。その"核"が粗雑であれば、作品としての仕上がりは勿論、
その品質もよくない。極端に謂えば、冠題に"心"を入れて無ければ、下句十二文字だけの作で、五七五、十七字定型の抒情詩「冠句」とは言え無い。従って、課題吟の冠題を省略記号にしては、冠題無用ともなる。
前述のベートーベンの原譜が読みづらい話は、五線譜の書きぶりが見づらいだけで、一音小節これ以上無い作曲の芸術神経を籠めての上である。メンデルスゾーンが幼年時、ベートーベンを訪い読み難い譜面を見せられ、
一読その曲を演奏したことは有名。そして太公やゲーテなどの理解者に加えて、数々の恋多き遍歴癖。ベートーベンの凄さは、それらを超えて一般市民の耳に音楽の心が、明らかに美しく大きく感動強く届く精神性だと私は信じる。
その集大成が第九交響曲で、大震災から再生する声援曲と想う。
冠句に戻って、作品の巧拙は"ことばつづき"と"ふかさとやすさ"で決まるが、句の輝きの本質である上五句の冠題を、重用して詠むことが句立の本道で、句心の命なのを忘れてはいけない。
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