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優秀冠句




秀  句  鑑  賞

 京都円山公園内の久佐太郎句碑の筆書者 田中周友博士は雅号暁人として、先師との交わりで前月号で少し述べた「吾楽荘」の居で、句作を興じ合っての連吟を句集『蒼天』に遺している。
先師の「机語」は住まいの「こゝは二階の私の書斎兼客間と、云ったところで頗る殺風景な、調度は何もない、壁の雨漏りのしみで自づと雲形模様が浮き出ていようと云う、柱かくしの一、二ヶしょには、書き損ねた拙吟短冊が丸窓からの陽ざし」差す部屋で、

訪ね来て 空しくかえる花の庵   久佐


花の雲 さそはれて来し吾楽荘  暁人


花の雲 紅きはももぞ吾楽荘    暁人

他の作は省くが詠み合っての光景が、目に浮かんでくるようだ。

 田中暁人氏に分野外ながら『連作私考』論文があり、その概要を紹介する。
氏は短詩文字の本質を言及した上で、「冠句は短詩形文学の一種で、たとえば俳句の本質なし価値の議論活発に交された第二芸術という新造語の簇生を、人も知るように短詩形文学の存在は、日本文学の特色の一つである。その短詩形文学の価値について外国人による文化研究というものを纏いてみる。英人で日本滞在もありタイムズにも筆をとる学究、フランク・ブリンリーは日本の詩を論じ、日本の五文字と七文字を見たてる句(ライン)が使用されれう、この文学(シラブル)が一定の下交互的に配置させられるのが、日本の詩の本質と原則で五又は七の文字配列が、詩として絶対的に要請されると言う。そして彼によれば十七文字詩は最も短縮した詩で、従って内容的に具象化した詩観念は"断片的"だが、他面詩の多くは印象的で表現するところは極めて暗示的であると、短歌で述べている」ことを挙げそして「特に冠句の連作性に関聨して興味ある、五・七文字を見立る句の魅力的リズムと、句の数の自由にして制限なきことを強調している点から、句数の複多性で内容豊富を持ち得、従って冠句が連作の形式並びに内容上、いわば第一芸術への飛躍を包蔵しいるものなることを理論付けすることが出来るのである。」と書かれている。」

 連作が書かれなくなって久しいが、樹神良々弥が提唱の「連冠句」が『冠句なごや』誌で、作品継続のことは傾注に価しよう。
句の五文字は歌体の七七の転置した詩なのは言うまでも無く、(以前佛足石歌で少し述べた)自由な五文字が冠句の本質ではある。


雲と人 地に塩ありて旅つづく 川口 未知 ▲戻る
 

 定め無い雲の流れに想い託すのは古今渝らない人の常。その心誘われての存問の惰(こころ)に、果て知れぬ「旅つづく」境涯観に「地に塩」と聖書を引用して人になくてはならぬ、精神と命の在り場を求めようとしている。
教条性匂いが気になるが旅懐は普遍だ。

浮き沈み 嘉みするごとく岬晴れ 三村 昌也 ▲戻る
 

 人世の「浮き沈み」に古調の「嘉みする」と、少し恭しげに希いを籠めて「ごとく」の直喩で、初春の景観を語っており顧みて昨年の、起伏多い生活哀歓をも概ねよしとする感に至って、眼前の「岬晴れ」の海景美しいさまを、心象で描いたと自祝と謂える。

雲と人 冬枯れの河茫洋と 高岡 ひろみ ▲戻る
 

 前出の旅懐とおなじ境涯吟だが「冬枯れの河」に、重くして流れ浅い殺風景さに何か、言い知れぬ広さを覚え「茫洋」と、見極め難い無気味さに侘ち竦む感嘆である。河口の物淋しさ伝わる。

浮き沈み この地に生きて愛す土 栃尾 恵羊 ▲戻る
 

 農耕に生涯の糧と生命の証しとして勤む姿勢で、代々「この地に生きて」来ての想いも重ねて、家の「浮き沈み」を凌ぎ受け継いだ「愛す土」への情が、抑えた口調で生活述懐のように映る。

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