昨年七月二十二日、皆既日食が現出することで日本列島が湧いた。私は京都市中でその片鱗の部分蝕を薄雲を通して眺めたが、先師久佐太郎は、昭和十年の日食を体感されて作品に遺された。
突き進む虧けよ太陽宇宙の秘
ひっそりと一分五十六秒のスリル
突き進む見よ! コロナ、グラスは光茫をとらえ得たり
後句は省くが、当時の実情感がよく判り共に眼にする感になる。この時代より先師は、冠句「連作吟」を"かんくろまん"つまり「自由吟」創作を旺盛に行われ、私がその後に面識してからの作品数の印象とは、少し違うような感じを深くする。そのことと通じる感懐文を、桜月師が「久佐太郎忌に寄せて」書かれている。
「銀閣寺畔、疎水の流れに沿うた葉桜の道」を歩いて、先師を偲びつつの随筆で、読み返しても先師が疎開先 "福知山三年間"より、京都へ移住されて来た日常感も心うれしい一文ではある。「······京都鹿ケ谷法然院町に移られたは昭和二十四年七月初旬であった。戦災で失われた神戸の邸宅とくらべては、さゝやかなお住居ではあったが、静かなこの辺りの環境が大変お気に入ったようであった。東山の麓、法然院の森のうしろに大木が鬱蒼と窓を覆い、夏草が生い茂って道を狭めていた。」そして疎水に沿う並木、湯町めく橋、豊かな環境で「師は多作であった。」と達意に語り、
銀閣寺 疏水並木は濃みどりに
銀閣寺 湯町めきたる橋たもと |
久佐太郎(八・七) |
「参道」「法然院」「安楽寺」の作に師の俤を浮かばせている。
その昭和二十四年当時私は未だ冠句を作らず、勿論『文芸塔』も久佐太郎師を識ることは無かった。然し私家の檀家関係で "哲学の径"法然院は見識ってい、後『京しをり』誌時代に吟行句会をし、一日を疏水沿い周辺を語り合い楽しむ機会を持っている。
静かなる 庭のいのちを打つ 添水桜 月
道長し 水車たゆまぬ音も 秋直 情
疏水路に 添いて吟列秋日 遅々和 彦
音があり 添水の中の詩仙堂 麗 水
もの恋し 触るれば悲し小鳥 笛明 美
吟行では題詠吟と自由吟の二つの作句を、併せ詠むことで愉しさが増す。冠句の道で連哥の立(タテ)句を成ずる、句立としての姿である創作吟を、倶に行い句心を深めてゆくことも大切といえよう。
吾楽荘 あるじは夕を散歩好き 久佐太郎
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