彼岸前の日の出が、K海峡の向こうの山霞む上に見事な耀きを放って昇った。波穏やかな海に一瞬陽の輪が揺らぎ見え、太陽の荘厳で謐かな眩暈さを、久しぶりに躯に感じ命の源泉に浸り直して、ふいと《遠き山見ゆ 遠き山見ゆ ほのかなる霞のうえに、はるかにねむる遠き山 遠き山山……》達治の詩を想い出していた。前号で、東海地震・局地豪雨被害を述べて、自然の酷烈さを思っただけに、太陽の巨きさに改めて天道の理に畏敬した朝だった。
ヴァレリーの詩篇に《いま 太陽の薔薇色の出現の姿に たちまち散り散りに 消えて失くなる。自信の翼を一杯に拡げて……これが 最初の祈りなのだ》がある。詩の心は昔も今も洋の東西渝らない。従って冠句も鮮烈で優しい琴線を鳴らす、愉しみとよろこびで創作したいものだ。唯、喜びや楽しみもその一歩手前の処までは、苦心や張り詰めるような集中力が要る。それを超えた先に、真からの悦びが待っている。それが本当の趣味と言えよう。
陽は海に しばし忘れた基地のいろ久佐太郎
先師の作は一九五四年(昭二九)沖縄などの基地は、未だ占領状態の駐留軍の治外法権下。核なき世界・無基地の国を念じたい。 |