冠句は、抒情と余韻の深いことが最も重要で、その感動のひびきが冠題へ更に反映して、谺のように残響するのが佳い作品だ。
崖っぷち 風のすがたの散り散りに 久佐太郎
凍雲に 疎林応ふるすべもなく
セロ太く 秋の湖底の唄がする 早川 桜月
船着場 マストばかりを見て帰る
昭和二十八年(一九五三)の作。両師の句集に竝んで輯されているのを、抜き出してみたまでで評釈を省くが、抒情・余韻そして対詠・照応のまことと言うべき境地が、今も褪せずに伝わる句だ。
作句に於て、句境の感興から入るのと、言葉の興趣から句をつくる人があるが、言葉上の趣向の作句は"類句多句"になり、感動の境地からの創作は"寡吟独創"で、評句では感動からの創作が秀逸で、言葉の趣向よりの句と較べて、幾年も褪せず佳吟だ。つまり、一刻のことばの面白味の句は流行するが、まことの道の心よりの句は、いつまでも人の記憶に留まり鮮明さが失せない。
卑俗な例を揚げると、以前「千の風」が集句で多々あったり、「流行熟語」からの借用句などは、句の上の趣きでのあそびに流れ、最短詩の冠句作品としては、上品の作とは言い難いことだ。このことは「去来抄」や「鬼貫・独言」など、昔から俳諧論で説かれており、感動の強さに優るものは無い渝らぬ諭しといえる。
因みに当時は「自由吟」募集が「連作」と共に行われており、先師作品は自らの発題での"題詠の姿をとる"創作吟であった。 |