先師が 「時事新報」 記者時代、 美術担当であったことの文体、 筆致や作句視点の洗練達意な例証は、 大砂辰一句集評で 「リアリズム (デッサンの確かさ) に発想して、 その奥を索ぐれば、 ロダン的なマチス的なかっちりした」 の一節でも明らかであり、 また
マチス逝きて陽の落箔をそこに見る
ゆく秋やゴッホゴーガンセザンヌそして
マチス逝きてわが青春をひたに揺る 晩年の作で右の 「・マチス逝く (単作)」 を、 発表されている。 わが国の絵画に新しい色感と描法を与えた、 マチスやセザンヌの油絵の鮮烈さも、 その遠因には日本の浮世絵の画風構成が影響しており、 又日本絵画を西洋顔料での技法で革新した、 狩野芳崖は現東京芸大の前身美術学校設立に、 フェノロサと寄与し岡倉天心を育てた。 芳崖の描画から後世奈良の仏教美術の宝庫に、 陽の光を当てることに至ってゆく、 そのことは脇にして天心から学んだ美術院の画家らと先師は、 時事新報時代からの知遇と思われる。
時事新報は諭吉が創刊のことは以前書いたが、 その資料が慶大に保管されており、 先師の 「わが青春」 の句の端緒も窺える。 芳崖没120年、 フェノロサ没100年、 天心没95年経ったが、 近代日本画に情熱で反映させた、 彩管画風はいまなお象徴とし鑑賞できる。 ある日病室に先師を訪ねた際表紙画 「夜桜」 を愉しまれていた。
冠翁忌としごと悔ゆること多き 病まれる以前の昭和二十七年の作品で、 師の深い心境感を今思い合わせられる。
手風琴林芙美子のおもはるる 同年作
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